米沢織

米沢織とは

米沢織は、米沢藩第九代藩主上杉鷹山の産業振興として青苧を原料とする麻織物からはじまった機業です。
米沢織物産地の特徴は「多品種少量生産」体制がとられてることで、イタリアのコモに匹敵する世界一の織技術を持ち、袴地の生産高も日本一となっています。

米沢織の工程

設備紹介01|安部吉

企画・設計

米沢織の洋装部門では、日々目まぐるしく変わるファッションの流行について検討し、新しいセンスで製品を生み出しています。
柄の制作は絵柄や模様をデザインした組織図をコンピュータに入力して、織物の設計図を作ります。

染色・準備

織物は繊維の種類や撚りの方法によって、独特の風合いが生まれます。染色も重要な作業です。現在は化学染料が主流になりましたが、伝統的な自然の染料でも染色が行われています。
多種多様な糸は、職人の技術と経験によって染められ、人の目で見極められます。

糸繰り機で、カセから枠に糸を巻き取ります。
経糸を必要な長さと本数に揃え、織機にセットできるようにします。

製織

織機には、手織り機や機械の動力で織る力織機があり、手織り、ジャカード織、ドビー織などの織り方が行われています。最近では、コンピュータ制御で高速に織られています。

仕上げ・検査

布の幅をそろえ、しわをのし、光沢を与えるなど、丁寧に仕上げが行われます。品質など細かなチェックをします。
後染の場合は前加工を施し、染色し、仕上げをします。全国からも織物が集まり、加工されています。

縫製

織上がった反物や、洋服を仕立てます。

米沢織の歴史

設備紹介01|安部吉

米沢産地は、日本国内の繊維産地の中で最北の産地です。

江戸時代の初め、米沢ではすでに漆・桑・からむし(苧麻)・紅花などが栽培されていました。上杉氏が米沢に入部した慶長6年(1601)、上杉景勝の重臣直江兼続は、城下町の整備を行う一方で、これらの特産物を引き続き奨励し、藩の買上制としました。後の藩の専売制の始まりとなりました。青苧(からむしから取りだした繊維)は、初め南部藩に売り出され、後に藩の主要な特産物として奈良晒や越後縮の原料として、織物産地に売られていきました。

第九代米沢藩主上杉鷹山の産業開発により、安永5年(1776)越後から縮師を迎えて、縮役場を設け、織り方を家中の女子に習得させ、織りだされたのは青苧を原料とする麻織物でした。これが、米沢機業の始めといわれています。

鷹山の藩政改革により、桑の栽培と養蚕が盛んになると、織物は麻織物から麻絹交織、そして絹織物へと移行していきます。安永以来、約40年間の歳月を必要としたのです。真綿を原料にした紬織物は、米琉紬、長井紬、白鷹紬と呼ばれ、のちに統一され、伝統的な置賜紬に発展していきます。

明治に入り、化学染料による染色方法が普及し、力織機の改良開発が行われます。米沢織物の海外向け製造も始まり、主にインド・アメリカに輸出されました。これが米沢織物輸出の土台となり、戦後海外展示会開催も行われるなど伝統となっていきます。 大正6年(1917)同8年(1919)の米沢大火が力織機への転換を促進しさらに近代化が進みます。現在、全国で第一位のシェアを占める袴地の生産は大正時代から頭角を現します。良品を出す為の人々の努力によって、米沢織物は綿々と現在に至っています。

大正4年(1915)米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)教授秦逸三の研究により日本で初めて人造絹糸が発明され製造が始まりました。米沢では、全国に率先して人絹応用の織物の研究開発が進み人絹撚糸は高く評価されます。人絹及び人絹交織を主流とした米沢織物産地も、戦時統制下で軍需品優先の生産体制が取られます。

戦後の洋装化に伴い、合成繊維織物等の新品種の開発や仕上げ加工技術の進歩に対応して、米沢織物の婦人服地は産地の新分野を確立していきます。絹をはじめとして化合繊まであらゆる種類の糸を組み合わせ手の込んだ製品を作り上げます。現在は、高級婦人生地として海外有名ブランドにも使用されています。また、呉服の高級化志向により品質の向上、商品開発が進みます。紅花染をはじめ草木染等の新商品が生まれました。技術の伝承や、新しい衣生活の提案など米沢織物のさらなる可能性への挑戦は続きます。

米沢織の沿革

安永5年 第九代米沢藩主上杉鷹山により青苧を原料とする麻織物「米沢織」誕生
明治9年 放任無統制下で粗製乱造の製品が続出
明治25年 米沢絹織物業組合が成立。検査の強化、品質向上に向けた取り組みが行われる
明治30年 米沢機業の振興を図るために、技術者を養成する工業教育機関「米沢工業学校(現・山形県立米沢工業高等学校)」開校
大正4年 米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)教授秦逸三の研究により日本で初めて人造絹糸が発明・製造
昭和28年 「米沢織物同業協同組合」へ改組。販売機構を備えた産地の傑出した製品づくりが行われる
昭和37年 製造・商業・染色・整理の各部会が単独の事業協同組合を設立。さらに撚糸・意匠の6事業体(この時、縫製は未加入)を統轄して米沢織物協同組合連合会に改組。
昭和43年 産地の拠点となる米織会館が建設
平成8年 米沢繊維協同組合連合会に改称
平成25年 米沢繊維協議会に改称
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